一筋縄ではいかない武将たち ②【松永久秀】

目次
三悪事の男、松永久秀(1508年―1577年)
茶器と共に天守閣もろとも日本で最初に爆死した男という派手なパフォーマンスで知られる松永久秀(ひさひで)または松永弾正(だんじょう)。
でも、どうやらこれは架空のエピソードであるようです。
久秀の人生はまさに下克上。
父親の名さえ記録にない低い身分の外様の武士だった久秀が三好長慶、その子義継、そして織田信長を主君として活躍し、のち足利義輝の側近として京都の政務も担当。
天皇家に由緒を持つ桐紋の使用を許可されるまでになりました。
これほど出世した人物は豊臣秀吉に次いで松永久秀だけだと言われています。
『常山紀談』という江戸中期の書物の中で、織田信長が徳川家康に松永久秀のことを「三つの大罪をやってのけた男」と紹介したとあります。
1540年頃より三好家に仕え始め、家臣団のトップにのぼった久秀は主家三好家の跡継ぎを毒殺。
第一の罪
その後主君長慶を含む三好一族の人々が相次いで死んだところで三好家を乗っ取りました。
第二の罪
次に、聡明な武将である義輝が邪魔だったのか三好三人衆と共に義輝を殺害。
第三の罪
今度は三人衆と対立し、東大寺大仏殿に逃げ込んだ彼らに対し、まさかの東大寺大仏殿焼き討ちの暴挙で応戦したのです。
信長に恭順の意
1568年織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、久秀は降伏し名物の茶入付藻茄子(つくもなす)を信長に進上して恭順の意を示しました。
久秀は信長に大和国の支配権を与えられ、三人衆とも和睦。
ところが、その後久秀はあと二回信長を裏切ってついには信貴山城に籠城。
そして信長の大軍に攻められ、自害したのです。
一説では信長が名物平蜘蛛の茶釜を譲れば命を助けると伝えたのに対し、久秀は茶釜を信長に渡したくないという一心からそれを破壊したのち自害したとも、自害したあとに自らの首を茶釜と共に爆破するよう家臣に命じたとも言われています。
いずれにせよ強烈なキャラクターであったことは間違いなさそうです。
明石 白(あかし はく)
ライター
愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。
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