【3分で学べる】戦国あれこれ③ 武将の愛馬について

目次
武将の愛馬
戦国時代の合戦に、馬はなくてはならない必需品。武将たちの愛馬とはどんなものだったのでしょうか。
戦国時代の馬は農耕馬を軍用馬に
戦国時代に合戦で活躍した馬たちはサラブレッドではなく、「木曽馬」と呼ばれる日本の在来種であり、繁殖能力が高い農耕馬が軍用馬として用いられていました。木曽馬は、ずんぐりしていますが、病気になりにくく、粗食に耐え、他の馬と協調しながら主人にも従順な馬であるところが軍用馬に相応しかったのです。
中には体高のある馬にのる武将もいましたが、馬の背丈は通常約133cm。競争馬の約160cmと比べてかなり低いです。その頃の男性の平均身長が約157cmなので、それに合っていたかもしれません。命令に忠実に走って行き、場合によっては人より頼りになる馬をサムライたちはとても大切に扱い、育てました。
武将の愛馬
武将たちの愛馬は一頭とかぎられたものではありません。合戦の時に何頭か連れておいて、本命の馬が疲れたらすぐに次の馬に乗り換えるものでした。騎馬隊で有名な武田騎馬軍団には、いつも3~4万頭の馬を確保していたのだそうです。
武田信玄の愛馬“黒雲”
なかなかの荒っぽい馬だったらしく、影武者ですら乗りこなすことができなかったとか。
武田信虎の愛馬“鬼鹿毛(おにかげ)” 体高:4尺8寸(145cm)
信玄が若い頃父親の信虎にいくらねだっても、信虎は先祖代々のものを全て譲るから鬼鹿毛は諦めろと言って譲りませんでした。信玄はこれが原因で信虎を嫌うようになり、後々信玄の父親追放の原因の一つとなったといわれるほど。
徳川家康の愛馬“白石(しらいし)”
名前に反した黒毛の馬。自慢の早馬で、もちろん関ヶ原の戦いでもこの馬で活躍したということです。
加藤清正の愛馬“帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)” 体高:六尺三寸?(191cm?)
実はこれは大陸から輸入したサラブレット種。他の武将たちを圧倒したそうです。
長宗我部元親の愛馬“内記黒(ないきぐろ)”
羽柴秀吉から拝領した名馬。1587年「戸次川の戦い」にて、島津義弘の知略により、窮地に陥った長宗我部元親を乗せて命を救った馬です。
島津義弘の愛馬“膝突栗毛(ひざつきくりげ)”。
1572年「木崎原の戦い」において敵将との一騎打ちの際、この馬が前膝を曲げ、高所にいた主人が戦いやすいようにしたお陰で、義弘は伊東軍の将・伊東祐信を見事討ち取れたそうです。
義弘は元々“竜伯”と名付けられていたこの牝馬を“膝付栗毛”と命名。その後もこの馬とともに戦い、非常に大切にしました。膝付栗毛は人間の年齢にして83歳まで生き、鹿児島には墓もあります。
長尾景虎の愛馬“放生月毛(ほうしょうつきげ)”
1561年「第四次川中島の戦い」における武田晴信との一騎打ちの時に騎乗していた馬。2頭の愛馬がいて、全体が白いのが「駆毛(かもう)」、毛口の周りが黒いのが「詮(せん)」と呼ばれました。ちなみに月毛とはクリーム色のことをさします。
前田利家の愛馬“松風(まつかぜ)” 体高:4尺7寸(142cm)
おそらく戦国史上一番有名な馬でしょう。前田慶次が、前田利家を騙して水風呂に入浴させ、前田家を出奔した際に奪った馬です。並外れた速さで走り、勇猛果敢で体力も抜群。松風のように速く爽やかに走ることから命名されました。
本多忠勝の愛馬“三国黒” 体高:4尺9寸(148.5cm)
松平秀忠から忠勝が拝領した馬。1600年「関ヶ原の戦い」で、島津勢の銃撃が三国黒に当たり、関ヶ原で亡くなりました。
<おわりに>
小さいといわれる戦国時代の馬ですが、それでも織田信長や上杉謙信など有名武将の馬は4尺7寸(142cm)から5尺(151cm)以上だったとされており、それらの馬が疾走する姿はやはり見応えのあるものだったことでしょう。
明石 白(あかし はく)
スペイン在住という効率の悪い日本史バカ。ライター。歴史記事とコマーシャル記事とかコピー書いてます。日本史を日常に。
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